着色のできること
ほぼ一年ぶりの「色再アルバム」の更新です。
どうしても、今、他の仕事を中断してでもしなければいけないと思って、必死にやりました。
この写真のカラーライズです。
でも、別に仕事として受注したわけではありません。今日、色々と感じ入ることがあって、自分のためにやりました。
写っているのはドロシー・カウンツ(Dorothy Counts)。
1957年に、白人しか通っていなかった高校に入学したアメリカ初の黒人女子高生です。
どんなに奇異な目で見られていたか、嘲笑されていたかは、後ろの人たちの様子を見て明らかです。
実際にひどい迫害を受け、「このままでは生命が保証できない」と4日目に退学することになります。
なんで私は、急にこの写真を色つけなければ、と思ったのでしょう。
たぶん、今日が9月11日だったから、ということもあるでしょう。
そして、セレーナ・ウィリアムスが全米オープンで主審に罵声を浴びせ、会場のブーイングで、勝者の大坂なおみに悲しい思いにさせたこともあるでしょう。
なんか、今も全然変わってないんだ、という気持ちが、だんだんともたげてきました。
もう一つ、どうしてもカラー化しなければ、と思うに至ったきっかけがありました。
この写真をAIで自動カラー化した写真を見ながら、「61年後の今、ニューラルネットワークによってよみがえった負の歴史は、これからも色あせることはないのだろう。」という記事を読んで、何か残念でならなかったのです。
これが、ニュートラルネットワークなる、AIのディープランニングを利用してたくさんの白黒写真、カラー写真をコンピューターに覚えこませ、自動でカラー化するプログラムを使った結果です。
これが、全然よくないのです。
これでは、何も伝えていないのも同然です。
「負の歴史は、色あせない」という記事の言葉は到底、心に響いて来ません。
記事を書いた方は、きっとカラーライズのことは余り知らないかもしれませんが(でも、それを安易に記事にしてお決まりの言葉をつけるのは感心しません)、このカラーライズの作業をしてSNSにアップした人は、有名大学の教授で情報デザインとデジタルアーカイブの専門家でした。
カラーライズにも色々とレベルがあって、それは適材適所に使わないと成果は期待できないということを、知っているはずの方からの発信なのに驚きました。
あまり考えずに、ポッとアップしてしまう感覚が、Web記者だけでなく専門家にまで浸透していることに危機を感じます。
(私も、油断するとやってしまいますが……)
こういう時のカラーライズは、クリック一つではなく、一つ一つを吟味して慎重に、気持ちを込めてやるのがいいと私は感じています。
気持ちを込めた復元が、どれだけAIカラーライズと違うか、どうしても確かめたくなりました。
丁寧に一つ一つ復元していくとき、その人たちの気持ちを想像したり、当時の時代の空気を考えたりしながら進めます。
復元していくと、背景にいるのは子供たちだけでないことに気づきました。大人も見られます。想像よりも厳しい世界なのが分かってきました。
私が復元した画像です。
ご覧いただいている皆さんに、感想は委ねます。
今日私が引っかかっているのは、実はカラーライズということではないのかもしれないからです。
最近、世の中から「慎重さ」「謙虚さ」「畏怖」などがなくなってきていることが心配です。
思ったことをすぐに発信して、それにすぐに反応して、また反応して、拡大して…… いつ反省するのでしょう。
私はいつも立ち止まって、反省ばかりです。
次の画像を発見して、早速、反省させられました。
見事です。負けました。
欧米の方がカラー化したのではないでしょうか。感覚がやはり違います。
空気がドライなのが分かります。私の方は、なぜか湿気があります。ホントに不思議です。
コダクロームと富士フィルムの差があるようで、面白いですね。
でも、NHK「よみがえる東京」では、私のこの湿った色彩感覚が活かされていた、ということですから大丈夫です。
私は私の表現を追求します。