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三越本店で開かれていた「千家十職新作展」に行ってみたところ、あまりの混みように驚いた。と、同時に、茶道具の魅力というのは、ホント麻薬のようなものだと思った。
もちろん、一品一品素晴らしいものであり、賞賛に値する。でもそれが、人を狂わせるほどの魅力を持ってしまったら、結果、展覧会のような醜態となる。
「もの」は、汚されても、傷ついてもいいから「もの」なのだ。使ってみて「いいね」と褒められる程度でいい。「用の美」とも少し違う。「美」という四次元的なものは、到底「用」という三次元と結びつかない。
もし、その「もの」が、「用の美」であるならば、それは「もの」の域からじわりと滲みだし、醜聞を導きかねない麻薬と化しつつあるのだ。魔薬と言ってもいい。
あるいは、悪魔に触れられ箔がついてしまったか。


深く知らず、完全に食わず嫌いだが、茶道が苦手である。
大上段に構えながら、私には崇高なる精神が感じられない。(あくまでも私には、である)深く突きつめれば絶対あることは分かっているが、、茶道を通して知りたくない。茶道という繰り返されマニュアル化したプロセスを通して、導かれるようにして知りたくないのだ。それに、茶道は真、魔物である。
自分の体の中で、どうしても拒否反応がある。魔物を相手にする恐怖かもしれないが。
※賞道にご参加いただいている、まるも茶屋と茶師の神崎さんに関しては、その活動方針とおもてなしの心について完全に理解して賛同しております。


崇高なる精神。
天皇がサウジアラビアの皇子と対話している写真が、有名になった。何もない簡素な空間に、椅子にテーブルだけ。飾りはテーブルにある花だけである。
私は、この写真に、崇高なる精神を感じる。茶道が言いたげな「わび、さび」と異なる「わび、さび」を感じる。
このような欠片をたくさん集め、俯瞰したときに、私の求める「わび、さび」が見つかるか、それは私にも分からない。


もう一つの欠片を、「映画監督・小林正樹」展で見つけた。
戦場で日記や小説を記した手帳。開かれたページには、白黒の薬師寺の薬師三尊の写真を貼ってあった。
これぞ「もの」である。何のてらいもないが、気持ちが染みついた、世界にたったひとつの「もの」。それは、当人以外に価値がない、だから「もの」なのである。


やはり「わび、さび」に崇高なる精神を求める私は、「もの」を通して人を見ているようだ。
その人がどのように生きて死んでいくか、そこに共鳴できるか。
なるほど、今の茶道具を見てまったく響かないのは、そこらへんにありそうだ。